昭和52年06月17日 朝の御理解
御理解 第55節
「賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。信 心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば、一年一年ありがとうなってくる。」
年をとって心と体が添わない、ほんとに若い時なら、この位な事はと思っておる事でも、中々容易でない。ほんとに信心を頂いて、年を寄るほど位がつき、年を拾うていくほどに有り難うなっていくという、信心を身につけた人と信心のない人を、思うてみると確かに年を取れば取るほど、愚痴っぽくなり年を取れば取るほど、不平不足が多くなる。まぁ一つの諦めのようなもので、もう年寄りというも、まあこんなもんだと言う様な、考え方に変わって行く事もあるでしょうけれども。
年を寄るほど位がつき年を取るほど、有り難うなってくるという、その開きと言うものは、大変なものである。ほんとに一年一年有り難うなっていくという、もう信心の有り難さと言うものは、ここに極まっておるというても良いくらい。一年一年ありがとうなっていけれると言う事が、信心なんです。そこに人間の幸せますます幸せになっていけれる、信心。年を寄るほど、ね、それこそ若い時はどんな事でも自分で出来ますけれども、年を取るとそんなわけには参りません。
五体と心が添わない、ね、そこで心の上に愈々助かりを頂き、心の上に一年一年有り難うなっていく信心を、愈々身に付けておかなければならない。信心のあるものとないものは、親のある子とない子程の違いと言うものを、年を取れば取るほど、感じさせて頂けるような信心を頂いておりたい。どうでも一つ信心を矢張り一年一年有難うなる。ただ信心をすればであって、そのまあいつも申しますように、信ずると言う心真心神心というように、自分の心の状態が変わっていかなきゃならん。
所がなら信心を頂いておっても、一年一年有り難うなっていけない人がある。ね、それはどこに原因があるかというと、結局信心を頂かずに信ずる心、それから次に真心次に神心と言う様に進んでいく信心。楽しみの信心をせずに、ただおかげを頂くと言う事だけに終始してしまうような、信心では有り難うなれない。はら信心があっても同じ。若い時には、それこそ賃を取ってする仕事とが、人が頼んでくれるように若い時には、いうならばそれこそ、火の行水の行も平気ででける。
そして神様をまあ、ごうぐるようにして、おかげを受けた時代があったと言った様な信心では、有り難くなれない。信ずる心は生まれても、ね、次の真心と言う信心に進んでいかなければ、ね、結局、信心は、まぁ、真心の追及だといわれております。いわゆる、心一つですべてを創る事が出来るんだ、と言うよな信心が愈々思い込みが強うなってまいりますと、真心にならざるをえないのです。
けども一生懸命お参りをする、一生懸命修行をする、まあそこん所を私はこれからの合楽で御信心なさる方達は、まぁ合楽理念に基づいて、信心の稽古がなされるならば、もう必ずいわゆる信ずる心も、同時に真心も強うなっていくでしょう。神心にもなっていけれるでしょう。そして一年一年有難うなっていけれる。だからどうでも一つ合楽理念に基づいた信心。もうほんとにある人が、この位なおかげなら若い時なら、ほんともう合楽に一生懸命参って。
水どんかかって参るなら、すぐおかげ頂きよったけれども、もう年取ったけんそげなこつはでけん、とまあいうておる人がある。ね、年を取るほど位がつき、年を取るほど有り難うなっていくという信心にです、ね、若い時にはそれこそ神様をごうぐるような、信心でおかげを受けて、こげな風に一生懸命参りさえすれば、御用さえすれば、ね、修行さえすれば、おかげを下さる時代があったと言う様な信心では、有り難くなれない事が分かりますね。
所がそういう信心がいままではかって多かったのです。ね、だからもう五体が言う事きかん、お参りしょうと思うてもお参りができん。もうおかげが断絶になってしまう、と言った様な信心は、もう合楽では信心とは言わない。もう合楽ではどこまでも、合楽理念に基づいた信心にならなければ、信心とは言えない。ね、是ならねもう必ずいうならば、ほって置ってもいうならば、金の、銀行に金を入れときゃ利が付くように、ね、もう利子だけでもやっていけれる様に、ね、一年一年有り難うなってくる。
その有難うなってくると言うその有り難いという心に、一切のおかげが集まってくるのですから。本気で自分の信心が一年一年ありがとうなっていく信心に、のっとったおかげであるかどうかと言う事を、愈々本気で思うて見なければなりません。若い時には一生懸命、ならお参りもでける。だからお参りがでけると言う位で、おかげを頂くという信心ではいけない。心がね信ずる心から、真心に変わっていく、真心から神心に変わっていく、からおかげを受けると言う信心にならなきゃいけん。
そしてこの信心をすれば一年一年、有難う成って来ると仰る、この一言のお言葉と言うのは、大変な言葉だと思いますね。そこでならお互いがいち早くひとつ気付かねばならん事は、私の信心は一年一年有難うなっていく、信心であるだろうかと言う事なんです。おかげさえ頂けりゃ有り難い、と言う事であったら、おかげが頂けないようになったら、もう有り難くなくなってくる。ね、ですからほんとに自分の信心が一年一年、有り難うなっていく信心か、どうかと言うことをね。
確かめてね、この信心で行けば、一年一年有難うなっていくと、いけると言うその確信を持って、間違いのない信心に進んでいかなきゃならない。同時に成程一年一年有難うなっていく、ね、そこにいうならば先々の安心というものもあるのじゃ無いでしょうか。ね、一生懸命お参りしよらなければ、おかげが頂けない何か修行でもしゅら、おかげが頂ける、と言った様な信心は、もう愈々ほんとにそれこそ弊害があるというてもよいぐらいじゃないでしょうかね。
一生懸命参っておかげを頂いた、一生懸命いわゆる表行なら表行をしてからおかげを頂いたと、ね、そして表行が出来ん様になると、もうおかげが受けられん様になると。もう愈々心一つに、焦点を置いて愈々、有難くなって行く信心かどうかを、先ずは確かめて、ね、その有難とうなって行く信心に、おかげが伴のうて来るという体験を積んでいくならばです、ね、心はいつの場合でも、ね、寝ておっても心を磨いてく事もでければ、ね、神心に成って行く事も出来るのです。
そこから有り難い心が生まれてくる、有り難い心にいうならばおかげは一つ、位一年一年位が付くような信心、もう本気で改まらなければいけません、ね、一年一年有り難うなってくる。愈々清まりに清まらなければ、いけません。そういう信心の一つの手立てと言うものを身に付けていくと言う事が、真の信心と言うのじゃないでしょうか。真の信心それには、必ず真のおかげが頂かれる、真の喜びも勿論頂けれる。そういう信心を頂きながら、年を拾うて行きたいですね。
どうぞ。